日本生物地理学会 2017年度大会シンポジウム

言語進化学と言語地理学の研究最前線 ― 人類集団の言語・文化・遺伝子の時空変遷 ―

2017年4月9日(日)15:00-17:30
東京大学農学部フードサイエンス棟中島薫一郎記念ホール(〒113-8657 東京都文京区弥生1-1-1)


[趣旨] (三中 信弘)

  時間的・空間的に変遷するという点で生物と言語の間にちがいはない. 進化する実体としてどのような原因で変異が生じるか, いかなる状況のもとで時空的な変化が生まれるかという点では言語と生物には差異があるだろう. しかし,現在われわれが入手できるさまざまな情報に基づいて過去の歴史を復元するという目標の設定 およびそのために用いられる理論や方法論そして系統推定アルゴリズムの点で言語進化と生物進化の間には 明白な並行性が認められるだろう.このシンポジウムでは中国大陸ならびに日本を含む東アジア圏に焦点を当て, 言語と生物の進化や系統を論じる共通の土俵をどのように構築すればいいのかについて議論を深めたい.


手段としての系統樹:「粤語」から漢語系諸語の言語史を考える

濱田武志(京都大学大学院文学研究科/日本学術振興会特別研究員)

印欧語研究で生まれた比較言語学は、言語史研究の代表的手法の一つである。 しかし漢語系諸語(中国語の諸方言の総体)は、印欧語が截然と分岐して拡散したのとは異なり、 音対応が整然としないことが多く、従って比較言語学の実践が難しい。とりわけ、 信頼性の高い系統樹を得ることは困難であった。系統学、特に分岐学は、 信頼性の高い漢語系諸語の系統樹を得る方法として有力である。漢語系諸語に分岐学を導入するには、 例えばコード化する言語変化や、系統推定の対象地点をどう選ぶか、という問題をまず解決せねばならない。 これらは、言語学・中国語学のみが解決できる問題であり、得られる系統樹の信頼性に直結する問題でもある。 この意味に於いて、分岐学の導入は、系統樹という成果そのものよりも、系統論に反証可能性を担保することに、 より深い言語学的意義がある。言語学で系統樹は、研究の単なる結果物とみなされがちである。しかし実は、系統樹の樹形は、 祖語(祖体系)の再建にとって重要な情報を有している。例えば、現代語に同源異形の語の組が見られるとき、 その組の構成員のうち、祖語の段階に遡る蓋然性が高いものがどれか、樹形を手掛かりに判断できる。また、 客観的議論が困難であった祖語の調値(声調の形式)についても、最節約的な祖先状態を樹形から導くアルゴリズムが開発されている。 系統樹は、言語研究の「目的」から「手段」へと、位置づけを変えようとしている。


中国大陸の言語文化史をめぐる謎

Sean Lee(早稲田大学アジア太平洋研究科)

  人類最古の文明の一つである中華文明は、その言語と文化の変遷過程の多くが謎に包まれています。発表者は数年前から、 中国大陸の漢民族の過去における生き様を究明することを目指し、彼らの言語と文化に関するエビデンスを収集して来ました。 漢民族の言語と文化の変遷史を、まるで生き物の進化史のように捉える統計分析に取り組み、 それらを産んだ人々の先史時代の様子を明らかにしようと試みました。しかし、漢民族の言語文化史は、 一枚ずつ皮を剥いて行く度に、答えより疑問が増えて来るような、これまで経験したことのない難題であることが分かり、 明確な結論を導出することが出来ず、現在も多角的な調査を続けています。本発表では、中国大陸の言語文化史と、 それらを生み出した漢民族の過去について、発表者がこれまで行って来た分析結果と、 遺伝学・人類学・考古学から発表された知見を紹介しながら、何が分かっていて何がわかっていないのかを議論したいと思います。


DNAにもとづく集団の系統関係と言語の系統関係との差異について

斎藤成也(国立遺伝学研究所)

  21世紀になってヒトゲノムの塩基配列が決定されると、 現代人の遺伝的多様性をゲノム全体から明らかにすることができるようになった。 最近まではゲノム中の数万?数百万カ所に存在する単一塩基多型(SNP)データを用いることが一般的だったが、 ここ数年、ヒトゲノムの塩基配列決定の価格が急速に低下しているので、全ゲノム配列がつぎつぎに決定されている。 このような莫大な情報を比較することにより、集団間の系統関係のみならず、個人間の近縁関係まで推定できるようになっている。 われわれも、これまでに日本列島や東南アジアに居住する人類集団の系統関係や混血パターンを、 SNPデータをもとに推定してきた。縄文時代人についても、はじめて核ゲノムデータを部分的に決定し、解析している。 一方、言語の系統関係は、ヒトゲノムデータとは比較にならないほど量が少ないが、 生物進化で用いられている手法を言語データに応用した研究がさかんになっている。複数の人類集団が接触した場合、 DNAはいろいろな割合で混血してゆくが、言語はおきかわることがある。オキナワでは、 かつて話されていた未知の言語が琉球語という大和語の分岐した言語におきかわってしまった。DNAからみても、 オキナワ人は本土日本人ときわめて近いが、それでも縄文時代人などから受け継いだDNAも持っていることがわかっている。 言語の場合にも、借用語の問題があり、分岐だけをしてゆく系統樹を仮定した解析には問題がある場合が多い。 このあたりについて議論したい。